乖離と融和

いわゆるハイファイ、high fidelityは、ハリウッドなどのフィルム産業における映画館の音響設備を、個人宅に転用したのが始めです。

巨大なアサガオとこうもり傘の張布のような大径振動板の組み合わせによる音響を映像に重ね合わせて、現実感を創出する仕組み。

軍用機などのスクラップからの転用が多く、その機械的性能がめざすのはどこまでも続く拮抗。古いアルテックやジムランの音に凄みがあるのはそのあたりの事情かと。

わが国のハイファイは、その辺の模倣からといえばその通りなのでしょうが、使用する材料や、温度や湿度をはじめ環境要因がそもそも異なりますから、緊張と弛緩の反復を作ることは目的ではなかった。

広い空間を震わすようなスーパーリアル音響を脇目に、国産品は折り目正しい振る舞いと適正な距離感のある音楽体験を提供するのが使命だったようです。

民間はおろか、公共システムにすら使われないような強力な磁気回路を持った海外の音響システムには、はっとするような新鮮さが常にあって、限られたマニアのみ知る本物として一般家庭の子弟には垂涎ものでした。また、そういった音響を所有されている方には、それなりの理由が見受けられるのも事実でした。

それでも、自分の部屋で音響システムを稼働させていこうとするならば、自分自身の歴史的、政治的要因に梃子入れする、つまり手に入る資材で最大限工夫することです。

そんなわけで、日本で音響装置を個人運用すると、置き台だとか電源装置だとか、いわゆるアクセサリーを駆使して小さな変化を積み重ねることになりがちなのです。

この極めて平和的な作業は、室内で一人で行われ、その結果もほぼひとりで享受するばかりでしたが、目の前の箱を見つめ両の耳をそばだてていると、そとの日常世界が遠く小さくなってゆくように感じられ、そこが妙味だったかもしれません。

遠近法、いわゆる一点透視という絵画の技法において、遠くに位置するものほど小さく描きます。本当に小さいわけではない。でも、遠くのものは小さいという感覚の概念化が行われている。そこまでたどり着いて実物の大きさを目の当たりにするという楽しみが誤魔化される。

小宇宙たる音響世界にいると、小さい音は遠い音ではなく、大きい音と等価なわけです。ここで大小と遠近という二つのスケールへと時空が整理される。

小さいものは小さいままに、遠くのものは遠いままに。

別の感覚に置き換えて言うと、日本庭園に生える緑苔の一つ一つの有り様を味わうことでまったしとする楽しみ方は、この国では普遍的です。古い庭を眺めに出かけるよすが、それも音響です。

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