ものを減らすこと

文章であれ行為であれ、自身のなすことは一身に堪えます。

新聞のどうでもいい三面記事は目にしない。段差の高すぎるエスカレータをわざわざ歩いたり、本来身に備わった動線に反するような動作は取りたくない。

音響の起こりは、ラジオでした。なんとなく過ごすひとりの時間に、部屋の空気に微かにブレンドされた香りのようなお喋りや歌。お気に入りの曲がかかると耳がそば立つ感じ。

そこからLPレコードやCDその他メディアを駆使して、音楽を好きなときに楽しむようになるまでに、バリアがあるのは当然です。

はっきり言って、室内、身のまわりに置く対象として音響関係の物体の存在を許さないという感覚も、真っ当なものでしょう。望めば一生、アンプ装置のボリュームを動かしたりせずに生きることだって可能。スッキリです。

生活に鏡が欠かせないのは、口の周りにケチャップが付いていないか、寝癖が逆立っていないか、つまりこれから外で出会う人達への配慮が大切だから。情報は常に己を映し出しますが、みんなと仲良くするために生じ来たる、世界からの大切なフィードバックです。

音楽の起源は、目には見えないけれど確かに存在する影響力を、なだめ、鎮め、そして感謝する身に備わった感情表現。本来、音にする必要はなかったはずです。

それを敢えて耳に感じる形で表すのは、誰かしらなにかしらへと印を残すため。

・・・

音楽を聴くのは、誰かを、ひいては己を識るためであって、ひとりになるためではないのです。場を共有して楽しむもの。部屋で音を出すのはかなり慎重にしないと、人付き合いに基づいて形作られている神経系統を撹乱することもあります。

部屋に音響機器を置くことになっている経緯は様々でしょう。でも、これは拡張するよりも、希薄に目だたなくなっていくことが必然の仕組みであり、なおかつ存在感を減衰する過程で損失があってはならない。そのための活動を10時屋として行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です